ある夫婦が一枚のメモを差し出した。
「話だけでも聞いてくれませんか?」。
メモには、そう書かれていた。
こうしてろうあ者であるF様夫妻と私との商談が始まった。
全て筆談だった。私は2センチ角ほどの大きな字で、一言ずつ丁寧に書いていった。夫婦は私の字に集中する。まるで、私の人格をその字から読みとるかのように。
お会いする度に何百枚ものメモを費やした。
「私たちこの家に住みたい」。
ある日、奥様がそうメモに記した。
その日から、F様を心配したご両親やご親戚の方から私への電話が相次いだ。
私は、時には電話で、時には実際にお会いして、経緯や物件について、ていねいに説明して回った。
ところが、その物件は、ご主人が務めている会社の提携先である不動産会社から買った方が手数料の面などで安く買えることが判明した。
F様はその不動産会社で買われるのではないかと思った。にもかかわらず、私から買うと言ってくださった。
私は時間を惜しまず、手続きのアドバイスをした。
銀行ローンを組むのにもすべて筆談。銀行担当者にとっても手間のかかる仕事となった。
しかし、その銀行マンも私の動きを意気に感じてくれ、丁寧にローンの説明をして書類をつくってくれた。
数か月後、ついにF様に新居の鍵をお渡しする日になった。
私は「どうして私から家を買ったのですか?コネを使った方が安く買えたのに」と聞いてみた。
しばらくしてから夫婦は、顔を見合わせ一枚のメモを差し出した。
「あなたから買わないとダメだと思いました。あれだけ辛抱強く私たちに接してくれて、話を進めてくれて、あなたから買わなければ私たちは人間として自分を許せなくなります」。
そのメモを私は最後まで読めなかった。手が震え涙がこぼれた。
人生、意気に感じて。そこから、私たちの仕事は始まるのだから。