「もう引っ越したいです。」
A様が思い詰めた様子でおっしゃった。入居からまだ半年ほどしか経っていない。
一体何がいけなかったのか?物件選びに妥協はしていない。もちろん無理にお勧めもしていない。
「思っていたよりも坂道がきつくて・・・」。
住まいは気に入っているが、子供の送迎などで一日に何度も坂道を往復するうちに慣れるどころか苦痛が増した。
帰りの坂道のことを考えると、牛乳ほどの重さの物でも買うのをためらう。
最近では子供を塾まで送った後、一旦、自宅に帰ろうという気になれず、街なかで時間をつぶすことが多くなったなど、苦痛話は止まらなかった。
思い返せば、嬉しそうにこのマンションでの暮らしに夢を描く奥様の姿に、私まで舞い上がっていたのではないか?
ここの素晴らしさを伝えることしかしていなかったのではないか?
A様と別れた後、冷静になって考えた。 A様が我慢しながら生活されていたのだと思うと、いたたまれない気持ちになった。
結局、A様宅は売り出されることになり、「坂道がないところ」という条件で再びA様の住まい探しがスタートした。
今度こそはと、駅からもスーパーからも近いマンションを複数提案。
A様は2物件ほど気に入られたものの、決め手に欠けるというご様子だった。
それから2週間ほど経ったある日、売り出し中のA様宅を見学したいという方が訪れ、見学者の要望でA様自らが室内を案内された。
A様は、坂道は楽じゃないですよと前置きされながらも、周辺は緑が豊かで閑静、南向きの開口部が大きくて気持ちがいい、美しい夜景を眺めながら過ごす時間がご主人にとって最も安らげるひととき・・・など、住まいと暮らしへの愛着を物語る言葉が次々と繰り出された。
うれしそうに、まるで愛する我が子のことを語るかのような話しぶりは、ここを離れる人のものとは思えなかった。
見学の方が帰られたのち、「引っ越し、やめませんか?」と私は言ってしまった。
A様は少しびっくりされた。物件の売買で手数料をもらうのが私の仕事なのに、それをやめようと言うのだから驚かれるのも無理はない。しかし、その時は本当にそう思ったのだ。
A様は微笑みを浮かべ、「考えてみます」とおっしゃった。
それからほどなく、A様から連絡が入った。
「引っ越し、取り消します!」
その声は明るく迷いはなかった。
「人に説明したりほかの物件を見ているうちに、どんどんここの良さがわかってきて、今はもう坂道を含めて自分たちの家なんだって思えるようになりました。お手数かけてごめんなさい」。
坂道の苦痛を越える魅力が数多くあることを再発見し、喜びをもって住み続けられると確信されたことが伝わってきた。
私たちの仕事は、お客様と夢の住まいとの幸せな出会いをコーディネートすること。
その成立は、ご入居後の暮らしに心からご満足をいただいた時です。
だからご入居後であっても、考え、動き、お客様の曇りのない笑顔を追求します。