「売却についてはもう一度慎重に考えられたほうがいいと思います」
私は、住み替えを希望するA様にこう提案した。
それは、数日前のこと。「自宅を売却して便利なところに引っ越すよう息子夫婦から勧められました」という老夫婦A様から相談を受けた。
しかし、A様が懐かしそうに語られるご自宅での様々な思い出を聞くうちに、ご自宅の売却の提案に気が進まなくなった。
言葉の端々に「まだ自宅を離れたくない」というA様の寂しい思いが伝わってきたからである。家族の大切な思い出が詰まった場所から離れていく寂しさは、かつて、私自身も体験したことがあった。
私は営業担当であり、売却を勧めるのが「営業担当の仕事」である。しかし、私にとってその時のA様の思いは、無視することのできない大切なものに思えた。
ご提案からしばらくして、A様から連絡が入った。
「やはりもうしばらくこの家で暮らしたいです」と、申し訳なさそうにおっしゃる言葉に私は胸をなでおろした。
その後、A様と連絡を取る機会もなく、私は多忙な日々を送った。ただ、ふとした折りにA様を思い出しては、なぜか自分の祖父のように気にかかっていた。
転勤を重ね、私が再びA様を接客した店舗に戻ったのは6年後だった。
「私たちにとって最後の一軒を探してください」。
異動後の慌ただしさが落ち着いた頃、なんとA様から電話が入った。
あまりのタイミングの良さに驚いたが、それ以上に、改めて指名をいただいたことがうれしかった。
A様は開口一番、「すぐに売却を進めてください。そして私たちにとって最後の一軒を探してほしいんです。今度は本当です!」とおっしゃった。どんな方法で、いくらで売却するかも全部任せてくださるという。私は、6年前に二度お会いしただけの自分を、ここまで信頼していただいていいものかと思った。
A様ご夫妻の期待に応えようと、可能な限り良い条件での自宅売却と、これまで以上に素晴らしい思い出を育んでいただける新居の紹介に尽力した。
私は、入社時に聞いた言葉を今でも思い出す。そして最近、その言葉の意味が本当に実感できるようになった。
「大事なのは会社のネームバリューや規模ではない。どれだけお客様の気持ちになって動けるか。それこそが私たちの値打ちである」。
先日、A様は息子さまのお住まいの近くに引っ越された。お孫さまに会う機会も増え、ご新居でもご家族の思い出を積み重ねておられるようだ。